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東京地方裁判所 昭和31年(モ)12253号 判決

東京都品川区南品川五丁目二百八十九番地

申立人

海藤長平

右訴訟代理人弁護士

小林忠雄

同所

被申立人

鈴木君子

右訴訟代理人弁護士

藤本梅一

右当事者間の昭和三十一年(モ)第一二、二五三号仮処分取消申立事件について、当裁判所は、次のとおり判決する。

主文

本件申立は、却下する。

訴訟費用は、申立人の負担とする。

事実

第一  申立人の主張

(申立)

申立人訴訟代理人は、被申立人(債権者)、申立人(債務者)間の東京地方裁判所昭和三十一年(ヨ)第一、六七八号不動産仮処分命令申請事件について、同裁判所が同年四月九日した仮処分決定は、申立人において保証を立てることを条件として、取り消す旨の判決を求め、その理由として、次のとおり述べた。

(理由)

一  被申立人は、別紙物件目録第二記載の建物部分(以下本件建物という。)について、その所有権に基き、申立人及び明立電機株式会社(以下明立電機という。)に対し明渡を求める権利があるとし、申立人等を相手方として、東京地方裁判所に仮処分を申請し(昭和三十一年(ヨ)第一、六七八号事件)、同裁判所は、被申立人に金三万円の保証を立てさせたうえ、同年四月六日、「債務者等(申立人及び明立電機)の別紙目録記載の建物(本件建物)に対する占有を解いて、債権者(被申立人)の委任した東京地方裁判所執行吏に保管を命ずる。執行吏は、その現状を変更しないことを条件として、債務者等にその使用を許さなければならない。但し、この場合においては、執行吏はその保管に係ることを公示するため適当の方法をとるべく、債務者等はこの占有を他に移転し、又は占有名義を変更してはならない」旨の仮処分決定(以下本件仮処分という。)をし、右決定は、同月九日、執行された。

二  しかしながら、被申立人の右主帳の当否は、しばらく論じないとしても、申立人には、次のような本件仮処分を取り消すべき特別の事情がある。すなわち、

(一) 申立人は、もと、東京都品川区東品川三丁目三十五番地において、公衆浴場(その大きさは建坪六十九坪二合五勺、二階十坪。)を経営していたが、昭和三十年十一月三日、岡部勝次郎を介して堀田善吾(昭和二十九年三月二日死亡)の相続人堀田幾江外六名から本件建物を含む別紙物件目録第一記載の建物をその敷地とともに、代金四百五十万円で買い受け、同日、内金百十万円を支払つて所有権移転の登記をし、残代金は、昭和三十一年一月三十一日、建物の引渡と同時に支払うこととした。

(二) 本件建物は、もともと浴場建築であり、堀田幾江は、すでに、昭和三十年九月二十三日、品川区役所建築課に公衆浴場建築確認申請書を提出し、審査の結果、その確認を得ることは、確定的であつたので、申立人は、本件建物において浴場を経営する目的で、これを買い受けたのであつた。

(三) しかし、当時、本件建物は、明立電機が、堀田善吾及びその承継人としての堀田幾江外六名から賃借し、占有していたので、申立人は、同会社に対し本件建物の明渡を交渉し、かつ、昭和三十年十二月十五日、大森簡易裁判所に即決和解を申し立て、和解の成立結果、申立人は、翌三十一年二月二十日、右会社から本件建物の明渡を受け、目的としていた公衆浴場のための改装工事に着手したところ、その工事なかばで、同年四月九日、被申立人から本件仮処分の執行を受けた。

三  (一)本件仮処分は、前記のとおり現状の変更を許さないものであるから、その執行の結果、申立人は、すでに着手した改装工事を続行することができず、したがつて、浴場営業を開始することができないこととなつた。そのため、従来申立人が浴場営業からあげていた収益の実績及び本件建物の立地条件から見て、少くとも一カ月金十二万以上の得べかりし利益を失うこととなつた。しかも、申立人には他に生業がないから、申立人及び一家の生活の資を得る道がないばかりでなく、雇傭している従業員もその生活根拠を失うという、異常な損害を蒙つている。

(二)他方、被申立人が本件仮処分によつて保全しようとする利益は、本案における被申立人の勝訴判決に基く明渡の強制執行が、申立人の本件建物の占有移転、または、占有名義の変更によつて遅延することに伴う損害すなわち賃料相当額の損害の発生の防止のみであり、、その損害は、金銭的補償をもつて完全に満足される性質のものである。

四  よつて、申立人は、裁判所が自由に定める保証を供託することを条件に、本件仮処分の取消を求めるため、本件申立に及んだ次第である。

第二  被申立人の主張

(申立)

被申立人訴訟代理人は、主文第一項同旨の判決を求め、その理由として、次のとおり述べた。

(理由)

一  本件建物について申立人主張の日、そのような仮処分決定の発令及びその執行のあつたこと、本件建物がもと浴場建築であつたこと並びに昭和三十一年二月二十日頃申立人が明立電機から本件建物の明渡を受けたことは認めるが、その他の事実はすべて争う。

二  申立人は、本件仮処分執行当時、すでに、公衆浴場のための改築工事に着手していたと主張するが、被申立人が昭和三十一年四月九日、東京地方裁判所執行吏に委任して執行した当時には、本件建物内には、木屑その他の雑物がうず高く、乱雑に積まれ、立錐の余地もないくらいで、改装工事などは、まるで、できていなかつた。しかも、申立人が主張する浴場建築許可は、本件建物を含む別紙目録第一記載の建物全部を対象として許可されたものであり、右建物の一部である本件建物を除いた一階十九坪二合五勺、二階十八坪七合二勺、三階七坪(実測十二坪五合)は、被申立人が占有中であるから、被申立人の右占有部分をも使うのでなければ、公衆浴場を開くことはできない。ことに、右三階七坪(実測十二坪五合)の部分は、申立人の占有する本件建物の上に増築されたものであるから、浴場に改装するためには、この三階も壊さなければならない筈である。

三  また、本件建物は、公衆浴場であつたのは二十数年以前のことであり、その後は工場に使われていたので、相当に腐朽し、改めて浴場に改装するには建物全部の改築を必要とするし、建築基準法によれば、公衆浴場であるためには堅固な建物でなければならず、しかも、強固な煙突、浴槽等の築造が絶対に必要である。

被申立人は、本案訴訟で勝訴した場合には、申立人から本件建物の明渡を受け、そこで旅館を経営しようと計画しているので、右のような堅固な建物が築造されると、この計画を遂行するのに多大の支障を来すばかりでなく、現在、被申立人は、被申立人の前記占有部分において「かつぱ」という屋号で料理店を経営しており、もし、本件仮処分が取り消され、壁を隔てて公衆浴場が開かれるというようなことになれば、被申立人の料理店営業は全く不可能となり、被申立人の蒙る損害は、申立人が本件仮処分によつて蒙る損害よりも遙かに大きく、しかも、その損害は、金銭的補償をもつて終局の満足を得られるという性質のものではない。

第三  疎明関係(省略)

理由

(当事者間に争いのない事実)

一  本件建物について申立人主張の日、そのような仮処分決定が発令され、かつ、執行されたこと、本件建物がもと浴場であつたこと及び昭和三十一年二月二十日頃、申立人が明立電機から本件建物の明渡を受けたことは、当事者間に争いがない。

(本件仮処分によつて申立人の蒙る損害)

二 まず、本件仮処分によつて、申立人が蒙つている損害について考察するに、前掲当事者間に争いのない事実に、成立に争いのない甲第八号証、乙第二号証、申立人本人尋問の結果によつてその成立を認め得る甲第九、第十、第十三号証、弁論の全趣旨から成立を認め得る甲第十六号証の一から四、証人塙義明の証言及び申立人本人尋問の結果を綜合すれば、

申立人は、従来東京都品川区東品川三丁目において「三業湯」という公衆浴場(その大きさは申立人主張のとおり。)を経営していたが、昭和三十年九月頃、岡部勝次郎から本件建物を買わないかとすすめられ、その所在地である同区南品川五丁目附近は、従来の場所と較べ浴場営業のための立地条件が格段によいところから、これを買い受けることとし、「三業湯」を設備一切共金七百六十万円で他に売却し、同年十一月三日(登記簿上は十月二日になつている。)、本件建物を含む別紙物件目録第一記載の建物及びその敷地百四坪二合三勺を、堀田善吾の相続人堀田幾江外六名から代金四百五十万円で買受け、同日内金百十万円を支払つて所有者移転の登記を受け、堀田幾江が許可を受けていた公衆浴場建築の建築主変更の届出をし、さらに、当時本件建物を占有していた明立電機から、申立人主張のような経緯で、昭和三十一年二月二十日、その明渡を受け、同年三月五日頃、津村建設株式会社との間に、総額五百三十六万三千七百二十円で、「子宝湯」新築工事請負契約を結び、地下室の片付けと排水工事に着手したところ、同年四月九日、本件仮処分の執行を受け、工事は中止されたこと、その結果、同年六月に予定していた浴場営業は開始できないことになり、そのため、同年六月以降、毎月少くとも十四万円程度(数額は必ずしも申立人主張のとおりとはいえないが。)の得べかりし利益を失い、しかも申立人本人及び家族には他に生業がないため、申立人及びその家族五人の毎月の生活費に加えて、浴場従業員として雇つている男子二名、女子一名の給料として毎月合計二万円、営業のための諸公課月約二千五百円、工事のための借入金の金利一カ月約一万円の支払等の出費を余儀なくされていること

が、一応、認められる。

(本件仮処分の取消によつて被申立人の蒙る損害及び金銭補償の可能性について)

二 次に、本件仮処分によつて被申立人の受ける利益、換言すれば、これが取り消されることによつて被申立人がどのような損害を蒙るか、そして、その損害は、結局、金銭補償をもつて満足されるものであるかどうかについて考察するに、

被申立人本人尋問の結果によれば、別紙物件目録第一記載の建物のうち、本件建物を除いた部分、すなわち、表通りに面した建坪十九坪、二階十二坪、三階七坪(実測十二坪五合)の部分において、被申立人の母鈴木イクが昭和二十七年頃から「喜仙閣」という屋号で料理屋を経営し、同三十年九月からは、被申立本人が屋号を「かつぱ」と変えて、同じく料理屋を経営しており、現在売上は一カ月約三十五万円で、その三割は利益となるけれども、最近は営業も思わしくなく、ゆくゆくは本件建物を改築して旅館を経営して生活の資を得ようと計画していること、もし、本件仮処分が取り消されて浴場に改装されると、前記三階の部分は本件建物の上に増築されているところから、下から湯気が上り、床板も痛むであろうし、浴場と料理屋とが壁一重で隣り合うことは、料理屋の経営をほとんど不可能にすること(ことに、両者とも夜間を主とする営業であることから。)、被申立人には、料理屋営業のほかに、目下、他に収入を得る途がないことが肯認される。また、本件建物が、もともと、浴場建築であることは、当事者間に争いのないところであるが、成立に争いのない乙第四号証の一から三及び被申立人本人尋問の結果によれば、それが浴場であつたのは、十数年以前のことであり、その後は電機器具の工場に使われ、浴場施設は、ほとんど失われており、煙突は、被申立人の占有部分を侵害しない限り、新たに他に建設しなければならない関係にあることも窺われる。

以上のような事実からすると、本件仮処分によつて被申立人の受けている利益は必ずしも終局的に金銭補償をもつてその満足を得らるべきものとは断じ難いばかりでなく、これが取り消されて、本件建物が浴場に改装されるとすれば、前段説示のとおり、被申立人の料理屋営業は全く不可能とはいえないまでも極度に困難となり、被申立人が、その生活を支えるため、本件建物において経営しようとしている旅館業の開始にも著しい支障を来すであろうことは容易に推察し得るところであるから、これがため被申立人の蒙るであろう損害も、申立人のそれに勝るとも劣ることのないほど甚大なものであると推認される。

したがつて、本件仮処分の取消によつて被申立人に叙上のような損害の発生されることが推認される以上、申立人が本件仮処分によつて、前記のような少なからざる損害を蒙つているからといつて、これをもつて、本件仮処分を取り消すべき特別事情があるものとすることはできないものといわざるを得ない。

(損害と申立人の責任)

三 のみならず、成立に争いのない甲第一号証、第二号証の一から三、第三号証、第十二号証、乙第二、第三号証、申立人本人尋問の結果によつて成立を認め得る甲第十七号証の一から四、申立人及び被申立人の各本人尋問の結果並びに本件口頭弁論の全趣旨を綜合すれば、本件建物については、被申立人が特別の関係にあつた堀田善吾(申立人が本件建物を買い受けたと主張する堀田幾江の夫で、昭和二十九年三月二日死亡。)から贈与を受け、本件建物の所有権を取得したかどうかについて、被申立人と本妻である右堀田幾江等との間に紛争があり、昭和三十年七月十二日には、堀田幾江等を債権者、被申立人を債務者として別紙物件目録第一記載の建物の一部について占有移転禁止の仮処分の決定がされ、ついで申立人が所有権移転の登記を受けたという同年十一月三日より一カ月ほど前である同年九月二十一日には、贈与を理由として被申立人のために所有権移転の仮登記がされており、また同年十月十八日には、堀田幾江等から、被申立人に対し、堀田善吾の相続人として、被申立人に対し、書面によらない贈与であることを理由に、その取消の意思表示が発せられている等、その所有権をめぐつて深刻な争いが続けられており、申立人はこれ等の事情を知つていながら、本件建物を買い受けたこと、被申立人が、その占有部分において料理屋を営業していたこと、本件建物を浴場に改装するためには、この被申立人の占有部分をある程度侵害しなければ工事ができないことも、申立人によつて予見することができたであろうことが窺われる。申立人本人尋問の結果中、これに反する部分は、にわかに信用することができない。

これらの事実から推すと、申立人は、本件仮処分によつて蒙つている前記のような損害は、必ずしも予見することのできなかつたものではなく、みずから招いたものということはできないまでも、進んで火中に栗を求めたといわれても、また止むを得ないもののようである。このような事情のもとに生じた損害は、たとえ僅少でないにしても、申立人が受忍するのが、むしろ当然であり、これを、そのまま、被申立人に転稼することは、衡平の理念に反するものといわなければならない。

(むすび)

五 以上説示したとおり、本件において疎明された事実関係のもとにおいては、申立人主張の事実は、いずれも本件仮処分を取り消すべき特別事情にあたるものとは認め難いから、本件申立は、結局理由がないものとして却下せざるを得ない。

よつて、申立費用の負担について民事訴訟法第九十五条、第八十九条を適用し、主文のとおり判決する。

東京地方裁判所民事第九部

裁判長裁判官 三宅正雄

裁判官 岡成人

裁判官 柳川俊一

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